「学ぶ」とはなんだろう。その1

 

「学ぶ」とはなんだろう。

 

今改めて「学ぶ」とは何かを考えてみたい。

今の自分にとっての「学ぶ」とはどういうものなのかを考えてみたい。

 

 

これまでを振り返って、自分が学んでいたと確信できるのは、

まず「予備校」だったと思う。絶対に。

 

学びといっても、「受験に勝つため」の学びだったのだけど、その後は燃え尽きて腑抜けた大学時代を送ってしまったから、ちゃんと学んだという体感が残っているのはやっぱり予備校だったということになる。

当時は「受験戦争」なんて言葉があったから、そのときは弱肉強食の戦いに勝たねばならない。というような強迫観念や焦りもあって、その中にいた当初はだいぶ無理をしたし、かなりしんどかったと思う。

 

その時の楽しみと言ったら、勉強した分、きっちりと成果が数字に出てくるというところにあって、まるでゲームのスコアを競い合うようなちょっとした狂気も生まれていた。

さらに、予備校教師たちが、まるで憧れのタレントのような存在となる。
大人気の英語教師・薬袋先生の夏期講習は大人気で、即時に講座が埋まってしまうから、早朝に予備校に並んで予約したりして、予約できた時はガッツポーズしたりしていた。
今から思うと、あれは人気のアーチストのライブのチケット争奪に並ぶようなものと全く同じくらいなエンターテインメントだったと思うのです。

 

講義はテープに録音して何度も聞いて、先生の言うことは一言一句をもらさず丁寧にノートに書きとって、何度も読み返して、聞き返して、頭に叩き込んだ。
英語の苦手意識を一掃して、娯楽に引き上げたような楽しさがあった。

それから英語の楽しさに気づいて、しばらくはNHKラジオ英会話も聞いていたが、これも病みつきになるほどはまった。
教材テキストの物語が、親子同士の大げんかとか不倫とかが描かれていて、本当にこれNHKか?!と思うほど続きが気になってしまい、わくわくと学んだ記憶がある。

今思い出しても楽しくて、またあんな学び(=遊び)があるのならばやりたいと思う。

(そうだ、あれは学びであり、遊びであったのだ!)

 

それが今、できなくなってしまったのは、たぶん「目的」と「締切」が無いからだと思う。

「学び」には、いつまでに、どうしてもそこに到達しなくてはいけない、到達したいという、締め切りと目的が必須だと思うのだ。(つづく)□