心理的安全性について

 

心理的安全性」というのは、

Googleから提唱された言葉のようです。

 

「企業がもっとも業績を上げるために必要なものは?」

と社員に問いかけたところ「心理的安全性」が1位だったとのこと。

 

でも、心理的安全性なんて本当に実現できるのだろうか?

 

・・・・・無理だと思う。

 

どんな人とでも気兼ねなく遠慮なく話せる安全性なんて、

出来るわけがないと思います。

 

人との関係の中での安全性って、

結局は「うま」なんだと思う。

人はそれぞれ「うま」のあう人間というのがいて、

「うま」のあう人ならば、たとえ社長であっても、

遠慮も気兼ねもなく話せてしまうものである。が、

逆に「うま」が合わなければ、たとえ同僚や後輩で

あったとしても、気まずさや遠慮が重なって、

全く話せなくなってしまう。

 

お互いが、

馬鹿にしない。馬鹿にされない。

攻撃しない。攻撃されない。

会話のキャッチボールがはずむ。

互いの努力も全くなく、

まるでジグソーパズルがかみ合うように

はまってしまう関係。それが「うま」である。

 

心理的安全性」がうたう世界は、

世の中の誰もがお互いにとって

「うま」の合う人間になる。

ということなんだと思うのだけど、

そんなのは、無理です。

 

たぶん、世間がいま話題にしているのは、近づくことはできると。

お互いを「うま」の合う状態に限りなく近づけていくための

テクニックを学んだり意識改革を進めよう、という活動なんでしょう。

 

でも、仮にいっせーのせ!で全員がそういう人になれた。と

説明を受けたとしても、それでも心理的安全性は実現しないと思う。

人は、顔や声、沈黙だけで、もう不安をつくっちゃうから。

更に発言するときにも、話したい相手以外の人が聞いている、というだけで

発言ができなくなってしまったりもする。

僕は絶対にやさしい人間だよ、安心して。と言ってくれても、

勝手にこっちが不安を作ってしまうものです。

要するに「心理的安全性」が、目で見えない限りは、100%にはなりえない。

と思うのである。

 

海外旅行するときに事故や犯罪の少ない国を「治安のいい国」というけど、

言うなれば、心理的安全性ってのは、

「人間どうしの治安」のようなものなんでしょう。

 

これからそんな「心理的安全性」のある社会や組織を実現していくのならば、

対話で出た不安を、現行犯で

「あ、それ心理的不安ですよ」

とでも指摘して消していくという活動をするしかないのだろう。

けれど、それを伝えていくためにも「心理的安全性」が必要だったりして。

 

もうわけがわかりません。

10年後20年後の社会は、全員菩薩様のようになっているのだろうか。□