さみしい。ということについて その3

 

「寂しい」って、やっぱり、ときどきある。

 

これまで俺には無い。なんて言い張っていたけど、そこそこあるね。

前言撤回します。

というか、歳を重ねていくことで、強気だったところが弱気になって。

あるいは、思い込んでいたことが、ただの思い込みだったということに気づいて。

これまで勢いで抑え込んできていた、寂しさが、にじみだすようになってきたのかもしれない。

長い間水面下で蓄積されてきた花粉症が、ある日突然発火するかのように。

 

「顔は知っているけど、仕事上の接点がない」という人に職場で遭遇した時、無意識に目をそらしてしまう。あるいは、相手の方から目をそらされることがある。

そんなとき、ふと「寂しい」と感じた。

この人物との関係は、「職場が同じ」という以外接点が無く、きっとこのまま目をそらしあう関係のまま、お互いの人生を終えていくのだろうな。と、ふと思ってしまったのである。

「そんなものは、気持ちの持ちようだ。こんにちは!と声かけたら仕舞だ」

という意見もあるだろう。

が、「こんにちは!」の後が続かない。

相手にしてみたら「?! やぶからぼうに、何?」となるでしょう。

そこに業務上、お願いするようなことがあったり、一緒に進めねばならないようなことといった接点があれば、業務に寄りかかるようにして対話をつなげていけるけど、まったく何もない0℃の関係から、常温まで、拠り所もなく温めていくだけの、気力や時間やスキルが、自分には、無い。

きっと彼もおもしろいエピソードや親友にしか話さないプライベートがあるのだろうが、それを話してくれるようになるまでの「環境」を作るには、自分のパワーが足りなすぎる。なので、あきらめるしかない。

.....と、そこまでを瞬時に感じての「寂しい」なのである。

 

はじめから温まった環境に入っていくのならば、どちらかといえば、得意である。

例えば、宴会などの席では、お互いが「話しかけても、話しかけられてもOK」という状態で始まるから、なにかを話し始めたり、聞き始めたりしたら、むしろ時間が足りないくらいである。だが、その環境を自分で作る、のは大変苦手である。□