今日の一冊

 

林芙美子の「放浪記」を読んだ。

 

 

これはいわば「ブログの走り」だ。

 

が、とても読みづらかった。

膨大な日記から選り抜きで抜粋していて、日付も明確に書かれておらず、どんどん時間が飛ぶ。だからその都度、林芙美子が新しい環境に居て、新しい人間が居る。

唐突に始まり唐突に終わる。というか切れる。

そしてまた次の環境・時系列に飛ぶ。だからこの人が誰で、どういう環境で、といったことを読み解くのにとても骨が折れる。というか、読み解けないものが多い。

 

おそらくもともとは、誰かに読ませるために書いていたものではないのだろう。

100%自分のための日記ということだ。

文学研究者ならば、その行間や背景を読み取ったりするのかもしれないが、一消費者として読むには、かなりの労力を要する。

ただ、それでも今なお、この書が読み継がれているのは、その膨大な「ぼやき」の中に、「くじけそうになりながらも、生き抜く」。という、日々移り変わっていく環境におかれながらも、作者の強く生きていく信念のようなものが滲み出していて、それが文学的にも価値が高いと認められているからだろう。

 

思えば、自分のこのブログも、似たようなものだ。

誰かのために書いているというより、自分の中の澱を吐き出すという目的が強い。

だからといってはなんだが、もしかしたらこの10年余にわたる、このボヤキの数々は、「放浪記」さながらに、見えない自分を形作っているのではないか?と期待する(自分ではそれを見ることはできないが)。

 

自分という人間が、つまづいたこととか、乗り越えたこと、感じたことをなるべく赤裸々にかいているので、もしかしたら後続の若い悩める羊たちにとって、いつかなにかの心の助けになっていくかもしれない。そんなことは全く期待すらしてはいないが。

 

いづれ時間のあるときに整理して「もやまん放浪記」とでも題して出版をしたいと思いはじめている。

「放浪記」から得たのは、そんな「見えないリレーのバトン」のようなものかもしれない。□