マイ遺品展

 

 

みうらじゅん氏の「マイ遺品展」を見て、

 

........なんだろう、この人は。

 

改めてその問いかけが脳裏に浮かんだ。

 

60年にもわたり、作り続けてきたスクラップブック。
集め続けてきた名もなき膨大な品の数々。
それら(の一部)を会場で俯瞰すると、氏が大好きなこと・ものへの想いの強さ、愛があふれまくっている。そのパワーに圧倒される。

 

だが、これをアートと呼んでよいものか。と自問すると、
YESと答えようとする自分を押しとどめる見えない力が働く。

確かに、限られた人間しか持ちえない圧倒的、膨大なエネルギーが会場を包んでいる。
同じことができますか。と問われたら、絶対にできない。と答えよう。
だけど、そのエネルギーの向かう先が、なんとなく「ずれている」ように感じてしまうのである。

例えるなら、マイク・タイソンが体からあふれ出す人類最凶のエネルギーをもちながら、その全ての力の矛先を「ボクシング」ではなく、「切手集め」に注ぎ込んだ。とでも言おうか...........そんな違和感があるのである。

スクラップの作品は、どことなく横尾忠則氏のポスターを思わせるようなコラージュのセンスがあり、それでいて横尾氏のような表の光が届いて来ないこれらの作品は、いわば「裏・横尾忠則」とでもいえようか。

 

この時代、世の中のニーズは多様化して、多くの人が共感したりするものがありながらも、対し一部の人だけが共感する、いわゆる「ニッチ」なものへの価値にも光が充てられるようになってきてるが、氏が作り出すもの、集めるものは、ニッチの中のさらにニッチ、つまり、自分の自分による自分のためだけのアウトプットなのではないか。

世界中の誰もが目を向けないとしても、俺はこれがどうしても好きでたまらない。というものがあり、そこに全集中でエネルギーを注ぎ込んだものなのである。

つまりこれらの作品は、まずみうらじゅん氏一人のためにつくられた作品群であって、僕ら外野の人間は「よかったらどうぞ」という立ち位置で見ている感じがする。

なんにせよ、このような体験をひっぱりだすことができるのも、世界をみても、みうらじゅん氏しかおらず、その見方であれば、間違いなく、これもひとつのアートと言えるのではないか。

なにはともあれ、他の展覧会では体験できない、大変おもしろい展覧会だった。□