★ゴールデンレコード

 

認知するということについて。

 

人が人を認知して、さらにその人のことを記憶する、

というところまでには、

途方もないステップがあるように思うのです。

 

ところどころで、作品は観てるんです。

 

展覧会の会場で、ふと、その作品を見て、

「あ、いいな。」なんて思ったりする。

だけど、それがなんという作家の作品か、

その作家がこれまでどのような経緯で

この作品にたどりついたか、なんてところまでは

知ろうという気持ちには至らず、会場を離れ、

家に帰ってしまえば、もう記憶の中に埋もれてしまっている。

 

だけど、しばらく経って、また別の展覧会で

また「いいな。」という作品に出会ったとき、

キャプションを見て、「あれ?」と思ったりする。

この作品って、以前観たあの作品の作家だったかな.....?

となって、点と点が1つにつながり「線分」になる。

それでもまた会場を離れると、

その存在は記憶の中に埋もれてしまう。

 

で、みたび。

また、再開するんだ。次の作品と。

そのときになってようやく、

 

「この作家はすごい。

 一体どこの誰なのか。

 過去にどんな作品を描いていたのか。

 他の作品を観られる機会はないのか。」

 

いくつもの点がつながり「面」となって、

その作家のことや他の作品を調べ始めたりする。

ここでようやく、その作家は、

自分にとって確実な「認知」となり、記憶になる。

 

初めての出会いからそれまで時間を振り返ると、

5~10年くらいかかっている。

それだけすごい仕事をしている人が発信していることを、

アートに興味があってずっとアンテナを張っていても、

認知までに、それだけの途方もない時間がかってしまっている。

 

何か大きなブレークスルーが無い中で、

個人の存在や活動を、人に認知してもうらというのは、

どれだけ大変なことであるか。そんなことを思い知るのです。

 

杉本博司氏の作品は、10年くらい前に見ていたのです。

「海景」を見て、衝撃的なインパクトを受けた。

直ぐに影響がでて、水平線のタブローを描いてしまったくらい。

でも、その時は杉本博司という名前すら記憶には残っていない。

 

それからまたしばらくたって、

瀬戸内国際芸術祭で直島を訪れたとき、

そこでも杉本博司氏の作品を観ていた。

作品としてはしっかり覚えているのに、

それでもその時には、

作家の名はまだ記憶に焼き付いていない。

 

そして、姫路市美術館の「本家取り」。

さらに、日曜美術館での江之浦側溝所で、

ようやく...!(ほんとうにようやく)

杉本博司氏の名が、

一生忘れられないほどの強烈な光となって

脳に焼き付いたのである。

 

振り返ると、1年前の芸術新潮でも特集が組まれていたのだけど、

完全に見過ごしている。で、今改めて精読をしている次第である。

 

これだけすごいアーチストであるにもかかわらず、

認知されるということにこれだけの時間がかかってしまう実情に、

では、自分のような存在は、永遠のような時間が無い限り、

他人に認知などしてもらえないだろう..........。

なんて、絶望的な気持ちにもなったりする。

 

ただ確実に言えるのは、

認知されるかどうかという結果は関係なく、

作家は、いつでも、どこでも、誰とでも、

アンテナを張っている人に向かって、

つながれるように常に1000%の作品を作り、

ブロードキャストし続ける。それしかない。ということである。

 

それは、

ボイジャー探査機にのせられ、

いつか出会う宇宙人に向けて、

今も宇宙を飛び続けている、

ゴールデンレコードのようなものだ。□