自分の座右の銘は「期待をしない」である。
これまで何度か書いてきたが、改めて書いておく。
いつからそう思うようになったのかはわからない。
親から教えられたという記憶はない。
これまで生きてきて自然とそう動くようになってきたと思う。
世の中の争いの多くは、
「他人や世界に期待をして、それが叶えられなかったとき」に起こっていると思う。
身近な事例で言えば、家事だ。
家事はお互いの期待にまみれている。
例えば「家に帰れば美味しい食事が待っているはずだ」という期待をもって帰宅する。
だけど、帰宅したときそれが叶わなかったとき、裏切られたとき、「何故食事がない?何故準備していない?」と、自分の勝手な期待を相手に押し付け、争いが勃発する。
「そんなものは最初から無い」と、期待をしていなければ、実際に食事が無くても、感情を動かすことなく、建設的に「じゃあ作ろう」と受け入れることが出来る。
「買っておいて」
「洗濯しておいて」
「捨てといて」.........。
一応はお願いはしながらも、最後の最後は「もしかしたら叶わないかもしれない」と期待を放棄しておくことで、「買っておいてくれなかった」「洗濯しておいてくれなかった」「捨てといてくれなかった」という裏切りが起こったときに、「やっぱりね。最後は自分でやるか」と諍いなくその事実を受け入れる事が出来る。
まずは、身近な期待から放棄していくことで、世界はより平和に近づいていくと確信している。
若いころからなんとなく直観でそれを感じていて、そう動いてきたが、年を重ねてその確信の確度が高くなり、それが座右の銘になっている。
とはいえ、人は世への期待のすべてを捨てることはできない。
例えば、
「蛇口をひねったら水が出てきてくれる」という期待や、
「スーパーに行けば食材が手にいれられる」という期待は、
叶わなかったら生きていくことは大変困難なものになる。
生きていくためのインフラといった基本の部分は、期待と共に生きていかなくてはならない。
だけど、身近な自分で出来る多くのことは、期待を外に置きたいと思っている。
もう少し絞りこむと、
自分が思っている大切なことやこうすべきと思うことは、他人に期待しないほうがいい。
自分にとって大切であっても、他人にとってはどうでもいいことだったりするから。
他人にとってやらなくてもよかったり、大切でもないことは、期待してみても、忘れられたり、ミスをされたりする。そこは、期待を持たず、最後は自分でやるという気持ちでいる方がいい。
期待をしていい例外は、自分にとっても、他人にとっても、重要で大切であることが共有できていることだけだろう。
期待をしない生き方は、多くのことを抱え込むことになる。
世の中への期待をもう少しあげて、頼めばもっと楽になる部分もきっとあるだろう。
確かに、わざわざ面倒な状態のままでいたり、苦しい状態のままでいるようなことが、多いのかもしれない。だけど、頼むことによって発生する争いをするくらいなら、自分でかぶっている方が楽なのである。自分はそちらを選ぶ。
世界がお互いの期待を小さくしていければ、世界はより平和になっていくのだと思う。□