自分は「修行」という言葉のあこがれに、寄りかかりすぎている。
「修行」と聞くと、
ドラゴンボールで、悟空やクリリンが、とても重い甲羅を背負って、毎朝、恐竜に追いかけられたり、何千段におよぶ階段を上り下りするような過酷な牛乳配達を繰り返しているうちに、とんでもないパワーが身についていたというイメージが頭に浮かぶ。
ジャッキー・チェンの映画で、体が壊れるくらい鍛えて技を習得して宿敵を倒すというイメージも同様だ。
自分は幼いころに、そういう「過酷な修行を乗り越えて未来をつかむ」というような、努力とそれが実を結んで大きな成果を出すといった漫画や映画を散々見すぎてきたせいか、「自分も修行をしたい」などと軽々しく思っているし「強くなるためにならば、そんな修行も必ず乗り越えられる」と盲信している。
自分に限らず、漫画や映画の影響もあり、とくに自分と同世代の人間の間では「修行」ということばが、すごくライトに使われている。
やったことも、できたこともないのに、したいとか、できるとかずっと信じている。
でも、修行ってでもそんなものじゃない。
「千日回峰行」とかが、ほんとうの修行だから。
へたしたら身を亡ぼす。それでも先へ進むために立ち向かっていく。
そんな覚悟を持って臨むのがほんとうの修行であって、やったこともないのに、ただなんとなく自分は乗り越えられる。そしてすごい存在になれる。なんて甘いものではない。
そう考えたとき、
改めて、育児は「修行」だと思い至る。
本当の「修行」を今、自分はしていると思う。
人生を振り返って、これほど過酷で苦しいかったことは、かつてとても嫌いな上司に数年にわたって苦しめられ、何度も入院をしたという経験以外にはない。
奇しくも今、ほんとうの意味での「修行」に立ち向うことで、いままでのずっと都合良くとらえていた「ゆるい修行」のイメージが、ほんとうの過酷な修行=シン修行に上書きされていっている。
自分の多くの欲望を抑えこみ、強い突風や石礫にさらされながら、自分なりの責務を、毎日マシーンのように粛々と繰り返し進んでいく。
この修行の先にある光を信じて、多くの欲望を捨て、「今」を、未来に注ぎ込む。□