育児という、連続する時間のなかにいる。
デジタル的に、断片的に切り出した、いっときをつまみ食いするのではなくて。
アナログ的に、連続した時間、最高の時も、最悪の時も、すべて見続ける。
そういう時間の中に、自分がいる。
そこには、毎日ゆっくりだが確実に変化していくものがあり、
時折、それをアハ体験として、はっと気づかされたりすることもある。
子供の変化を通じて「時間の経過」が、見える化された。
毎日の、絶対に戻ることのできない、今という時間の連続により、刻一刻と未来が作られているという、喜びと寂しさが混ざったような不思議な感覚を、感じるようになった。
外で見かける他人の子供にみる「幼児である状態」や「小学生である状態」という「点」が、我が子の時間軸の先にも同様にあり、それらがつながって、線になっていく、という未来を、未だ信じられない気持ちでいる。
デジタル的に、外から見ていたころの他人の子への自分の言動が、なんと「他人事」だったことか。
それが逆転して、今の自分は、外から見たら、ただの「石ころ」だ。
石ころに向けられた「他人事」という視線や声を受け、その冷たさを感じることで、過去の自分が、当時育児にいそしんでいた人たちにとった言動に、改めて心からお詫びをしたい気持ちが芽生える。□