年賀状を考える

今年も、もう12月。本当に早いものです。

そして12月と言えば。そう。

今年もぼくはまた、年賀状を作るのです。

もともとは、新年のあいさつに直接うかがうところを、物理的に離れていたり、時間がとれなかったりで挨拶ができないので、一枚のはがきに新年のあいさつを託して贈る。というのが年賀状になったと聞いています。

でも、今やインターネットが通信インフラとして一般的に普及して、WEBやメールを使って年賀状を代用する時代になってきています。
これまでに何度も同じようなことを書いてきたけれど、ぼくはアナログとデジタルの狭間に生まれた世代の人間です。
会社に入って最初の仕事は、アナログテレビをデジタルテレビに置き換えるという仕事でした。今もずっとその狭間にいます。

ぼくの世代にも、違和感なくアナログからデジタルに移っていった仲間たちはいます。だけど、ぼくはどうもまだまだアナログの未練が捨てきれない人間のようです。

オルセー美術館には行けずに、ルーブル美術館に残ったマネのように。
今なお年末になれば、年賀状をしこしこと作って送っているのです。
ペンで字を書いたり、手を動かすことが根っから好きなんだろうね。

でも、最近になって、ぼくにとっての年賀状は、「挨拶」ではなくなってきてるように感じます。
チコちゃんが「神社でお賽銭を投げるのはなんのため?」それは「穢れを捨てるため」と教えてくれましたが。

僕にとっての年賀状も、最近は「この1年の穢れをリセットするため」というのが最も近いのかもしれない。
年末の差し迫った時期に1日中机に向かって、もくもくと150~200枚もの年賀状を書き続けている間は、もはや「祈り」のような気持ちになるのですね。そして無事に送り終えた後は、言葉にならない軽やかで清々しい気持ちになって、それでようやく年を越せるというわけなのです。
年が明けて返事が来たとか、来なかったとか。実は送ったあとのことはほとんど興味が無かったりします。とにかく「出したい」のです。

でも、ここでまた一つひっかかりが出てきますよね。
では、ぼくの年賀状を受け取った人は、ぼくの穢れを押し付けられているのかな?と。そんなわけはない。
神社で神様にお賽銭を投げることは、穢れを捨てるとチコちゃんは言ったけれど、多くの人は、願いを込めた神聖なものでもあると思って投げているでしょう。
僕にとっての年賀状も、同じです。書くことによって心を軽やかにして、送ることによって願いを届ける。そんな気持ちです。
これが不思議なくらいに神社でお賽銭を投げる行為と重なっているのです。やっぱり年賀状というものは「祈り」なのかもしれない。
八百万の神がいる国ですから。きっと、ぼく以外の人はみんな、ぼくにとって神様なんです、きっと。
穢れをのせたお賽銭と思わずに、神様に献上する神聖な願い。と思って受け取ってほしいですね。


今日も読んでいただきありがとうございます。
「今年も早い」という人は多いけど、「今年は遅かった」と言う人には会ったことがないなぁ。□