辛抱と達成感

 

オダラスをようやくクリアした。

 

まさに、ようやく。

本当に、ようやく。である。

長い戦いでした。

とくに、ラスボスとの戦いは、まさに死闘でした。

ラスボスの正体は、ずっと探していた息子だったという、いかにもありがちな昭和のアニメのような展開なのだけど、そこに失笑しつつも、まあ、強いのなんのって。

とりあえず、がちゃおしで、倒してみたら、

「そろそろ本気を出すぞ」と第二段階の変身。

とんでもなく強い。勘弁してくれと、それでもなんとか倒したら、更に更に第三段階の変身を遂げ、真の大ボスが登場するわけです。

こちとら、第二段階のボスとの死闘でほとんど体力なんて残っていないというのに、追い打ちをかけるように、これまた攻撃がえげつない。とても避けられない。まったく勝てるとは思えない。絶望的な気持ちになりました。

それでも、10回、50回、100回と何度も何度もやられながら、少しずつ敵の攻撃パターンが見えてきて、避けられるようになってくる。

こつこつ練習をすることによって、少しずつうまくなって、クリアができるという、ゲーム本来のおもしろさを思い出す。

何十回も死んで、死んで、死にまくって、それでも立ち向かっていく。

なんとしても、エンディングをこの目で見るのだ。

 

そんな横で、その様をみていた妻がポツリと漏らしたのです。

 

「もう、いいんじゃない」

 

...........!?

一瞬、夜も遅いからもうそろそろやめにしたら。という意味かと思ったのだけど、違う。ネットで動画でも出てるだろうから、それを見て挑戦を終わりにしたら。ということだったのです......!

 

別にそんなにがんばらなくても、もっとうまい人がいるのだから、自分でやらなくても、誰かの公開した動画で見れば十分という理屈なんです。

 

なんだかめまいがしました。これがジェネレーションギャップというものなのだろうか。

もちろん、僕も、最近はゲームをやるにもなかなか体力や時間がなく、代わりに誰かやってくれ!と叫んだりもします。でも、やっぱり、自分なりに挑戦して、練習して、クリアするという達成感を感じたいのです。

 

今という時代は、多くのものが完成されていて、満たされているから、誰でもできること、すでに解決したことには時間を割かず、自分だけができること、まだ解決されていないことに特化して時間を使っていく、という考え方なのでしょう。

労働力の超最適化された時代が来ているのです。

 

それでも。

それでも、やっぱり、どんくさく、努力する。辛抱する。そして達成する。

そういう古いやり方をやっぱり繰り返してしまう。それが自分にとっての美学なんだよ。

その先に、ようやくラスボスを倒せたあの瞬間の達成感。やっぱりがんばってよかったなあと思いました。これからも、無駄でもなんでも、やっぱり、自分でクリアしていくことを続けたい僕なのでした。□