漫才をやっている職場の後輩たちがいた。
職場のイベントで宴もたけなわ、というところでステージの上に二人は現れ、職場内の内輪ネタをまじえながら笑いをさそう漫才が披露された。
「M1にも出場しています。1回戦で敗退しましたが。」
漫才がおもしろい、おもしろくない。という以前に、身近なところで、漫才に挑戦している人間がいたことにまず、驚いたわけです。
単刀直入に「居るんだ」と思ったのです。
僕の中では、漫才というのはテレビの中の向こう、芸能人という人たちのフィールドであって、こちらは鑑賞するという立場という思い込みが完全に頭の中にこびりついていて、実際にやる。という人間が身近にいることすら考えたこともなかったのです。
そして、その驚きのほとぼりが冷めた後にやってくるのが「現実」です。
やっているのは、すごい。
で、その漫才は、面白いの?
そこに次の眼が向かう。
その瞬間、彼らが最初にエクスキューズしたように「1回戦で敗退した」と言う現実が見えてくる。
やっていること自体はすごい。でも、その多くの人の「優しいフィルター」がはがれたとき、彼らには「現実」という戦いがはじまるのである。
中にいる人間だけが見える世界。
中に入ったとたん、現在の自分の位置がしっかりとその世界のヒエラルキーのどこかに位置づけられる。そして戦いが始まる。
ただ、やっているだけで、すごい。なんていう言葉は、一瞬のなぐさめにもなりはしない、長くて、厳しい戦い。
翻って、僕の戦いのフィールドである、絵画の世界も全く同じである。
友人知人は、98%は情けの眼で作品を見てくれているだけである。
僕が僕でなかったら、きっと僕の絵なんてみてくれはしない。
本当の価値というものは、僕のことも、僕の作品も、全く知らない、観たこともない人たちが、面白いと言ってくれるものだけだと思うのです。
個展の会場に佇んでいると、時折、全く知らない人が訪れてきて、長く会場を見てくれることがある(稀に)。そういう方々を「絶対来場者」と呼ばさせてもらっている。
いかに絶対来場者の目を引き、喜んでもらえるものを作るか。
それがこれまでの、そしてこれからの永遠の戦いなのである。□