アトリエにふらりと入門してきた研究生。
30代前半か。
絵の経験は。と訪ねると、ほとんどありません。と回答。
描きたいものあるの。と訪ねると、これ。と写真を出す。
どこかの都市の風景。
ビルが林立する間に車道が通ったどこにでもある風景。
君が撮ったの。と訪ねると、いえ、ネットで拾いました。
それから、とくに彼と話すことなく自分の作業に戻った。
やがて、アトリエに歓声が。
「いいな、それ」「好きー」「センスいいわ」
彼だった。ネットで拾ったどこにでもある都市の風景を描いたものだが、寂しげな情感豊かな作品になっている。
声にならない絶叫が心のなかで響き渡った。
20年描き続けている僕でも、自分の描いた作品に、あれほどの歓声を浴びたことはない。彼には「素質」がある。
職場で持ち回りで書く、コミュニケーションツールとしてのブログがある。
十人十色、それぞれが普段感じたことなどを書いているが、その中に、思わず目を止める文章がある。
句読点のうちかたや、文体はとても稚拙なのだが、なんとも言えない「情感」「におい」が感じられる文章なのである。
本人は自分が書く文章がそんな「におい」を持っていることを全く自覚していないだろう。誉めすぎかもしれないが、プロが読んでも脳震盪を起こすような「素質」が、ある。
ブログを毎日こつこつ書いている自分でも、あの「におい」は書き出せない。
「素質」という言葉がある。
丹下団平が、どや街で矢吹丈のケンカを見て、
「おめえ、素質あるなあ、健闘やらねぇか」と声をかける。
練習をたくさんしたとか、長く続けているとかは全く関係がない。
素質というものは、ある人には、最初からある。
逆にどんなに練習をしても、ない人には、ない。
素質とは、あとから身につくものではないのだ。
素質をもつ人は、たくさんいる。
だけど多くの人はそのことを自覚せずに、それぞれがもっとも活躍できるフィールドに気づくこともなく、生きていくのである。
そして皮肉にも素質をもたない人間などが、そのフィールドにしつこく居座ったりしているのである。
世の中って、残酷だ。
「素質」がほしい。□