小藪君(仮)

 

小藪君(仮)にはセンスがあった。

 

絵を描くのに技術はいらない。

センスさえあればいい。

センスさえあればいきなり優れた絵が描ける。

だが、センスというのは磨けるものではない。

ただもう、最初からその人の中に「ある」ものだ。

小藪君にはセンスがあった。

 

「絵を描いてみたいです」

そう言ってある日、ふらりとアトリエにやってきた小藪君は、

それまでの人生で絵をきちんと描いたことは一度もなかったと言った。

だが、はじめてキャンバスに向かって描き出した絵は、かっこよかった。

全体的にグレートーンの暗い絵だ。

都会のストリートが雨に濡れている。

そのストリートの上を走る車のライトが、濡れた路面に反射していて、

独特の、虚無感というか、もの悲しさが、絵からにじみ出していた。

声にならない絶叫が、自分の中で聞こえた。

 

どこで習ったわけでもない、だけど、それはもう描く前から、彼の中にあった。

それまでに10年以上にわたって描き続けていた自分でも、そんなセンスは磨きだされなかった。

どれだけ長く描いた者であっても、無い者には無い。

まったく描いてこなかった者でも、有る者には有る。

神様は、意地悪で不条理である。

 

だけど、そんな小藪君は、しばらくすると子どもが生まれ、

「育児と業務が忙しくなったのでやめます」といって

音もなくアトリエを去っていった。

 

「やめるのなら、そのセンス、俺にくれよ」

そんなことを思った。が、センスは譲渡できるものではない。

センスがあるのに、なんの迷いもなく去っていく人がいる。

センスもないのに、往生際悪くしがみつき続ける人がいる。

神様はやっぱり意地悪で不条理だ。

 

それからしばらくたった頃、ヨドバシカメラの連絡橋を歩いていたら、

ベビーカーを押しながら、向こうからやってくる夫婦に声をかけられた。

小藪君だった。すっかりパパになっていた。

「また時間できたらアトリエに来てよ」

そう伝えたが、彼はきっと当分アトリエに来ることはないだろう。

20年くらいたって育児が終わり、仕事も落ち着き、また描いてみよう。というようなことを思い出したら、もしかしたらまた来るかもしれない。

でもそもそも20年後にアトリエや自分自身がどうなっているのだろうか。

 

業務や育児に追われた男子が、まっさきに絵筆を折る。

だからアトリエには男子が少ない。

今、育児に追われることになった自分だが、絵筆を折ることはない。

小さな時間を紡いででも、なんとか1枚1枚を描き切りたいと思い、続けるだろう。

センスもなく、時間がなくとも、往生際の悪さはやっぱり失われることはなかった。

 

自分にとって、描くことは、「呼吸」だ。

改めてそう思うのだ。

どんなに忙しい人間でも呼吸はするものである。

 

次に小藪君に会う頃には、彼を驚かせるような一枚が描けているといい。□