気にしない才能

 

「気にしない」って、才能だと思う。

 

気にしてしまう人が、

気にしないようにするためには、

大いなる努力が要る。

 

たとえば、

蜘蛛が嫌いというのは、言い換えれば、

蜘蛛を気にしてしまう。という状態だ。

 

蜘蛛を気にしてしまう人が、

蜘蛛を気にしない。ようになるためには、

蜘蛛を好きになるための努力をするとか、

蜘蛛に遭遇したときに撃退するための技や勇気を手に入れるとか、

そんな多大な手間や努力をかけて、変えていかなくてはいけない。

 

だけど、もともとから蜘蛛を気にしない。という人は、

最初から、気にもなっていないから、

蜘蛛に遭遇しても、ひょいと手ですくって外に逃がしたり、

時には退治することだって、

なんら努力なんてものを必要とせずに生きていける。

 

人間関係も同様で、「苦手な人」というのは、

言い換えれば、悪い意味で「気になる人」となるけど、

一緒に仕事をするような環境でそういう人がいたら、

アプローチを変える努力をしたり、

自分の性格を合わせようとしてみたり、

時には視界に入りながらも目に入らないように逃げ回りながら

しのぐ人だっているかもしれない。

だけど、そんな人も気にしない人は居て、

彼らからするとそんな努力は全く必要としないのである。

 

人それぞれ、いろいろな、

気にならない。気になってしまう。がある。

料理できるかできないかもそうだし、

日記を書けるか書けないかだってそう。

騒音が気になるかならないかもそうだし、

つり革を触れるかどうかだってそうだ。

 

Aさんが気になってしまって克服に苦労してしまうものですら、

Bさんにとっては気にもならない容易なことであったりする。

けれど、逆に、

Bさんが気になってしまって克服に苦労してしまうものですら、

Aさんにとっては気にもならない容易なことであったりする。

 

気にならない。というのは、努力なんて少しも

必要としないのにあらかじめそなわっている、

ひとつの「スキル」「才能」なんだと思うのです。

 

だから自分が気になってしまって克服できないということもあるとき、

それを気にしない人を眺めてうらやんでみたりもするけれど、

自分ができて、他人にできないことだってある。

そこは誇っていいんじゃないか。と思うのです。

 

あと、できないことを無理にできるようにする必要もないんじゃないか。

出来る人に任せて、自分ができることで貢献したらいい。と思うのです。□