ほぼ日手帳は、誰かに見せるために書いていない。
見せたいどころか、そもそも絶対に誰にも見せたくない。
だけど、それでいて、この素晴らしい自分の手帳を、
ちょっとだけ、誰かに、披露したい気持ちもある。
これはなんだろうか。
自分に限らずアトリエの先生も、居酒屋で話が盛り上がったとき
突然手帳を出してきてその中にメモしたスケッチやらの披露をする。
かといって、じゃあ手帳を見せてください。といえば、否!となる。
あれはなんだろうか。
誰にも見られることは未来永劫ありえないキトラ古墳でありながら、
その中の石室にあった壁画や天井画が素晴らしかったという記事を
以前書いたが、本当の作品とはそういうものだと改めて思う。
誰かのためではなくて、自分のために作られたもの。
誰も気づかなかったとしても誰も知りもしないままだったとしても、
作品として完成されていて、そこで完結しているもの。
作家として、目指す姿の作品とはそこにあるのだと思う。
多くのものは、えらくなりたいだとか、世界をおどろかせたいだとか、
評価されたいだとか、そういう感情が混ざって、にごっている。
純粋な、作品とは、そういう欲望を全て排除した先にあるもので、
作家はその境地を目指すべきだと思う。
そういう視点で改めてみると、手帳とは、
誰もが作ることのできる「純粋作品」なのだと思う。
私は絵が描けない、だとか、表現が苦手だとか、そういう人ですら、手帳は知らず知らずの間に「アート」なのだ。□