ごみ捨ての美学。

 

ごみ捨てが好きだ。

 

そう言う人間は稀だろう。

自分でも、自分がごみ捨てを好き。と言うほどの人間になったことに今なお驚きを感じている。でも、気づけばそうなっていた。

もともとはただの作業だった。多くの人にとってそうであるように。

だけど、清々しいのだ。捨てた後の気持ちが。それが積み重なって今の考え方に近づいて行った気がする。

ごみ捨ては、自分の心をリセットし、清々しい気持ちにさせてくれる尊い仕事だ。

 

「神社にお賽銭を投げるのは何故?」

「穢れを捨てるため」

.....とチコちゃんが教えてくれたことが今でも頭に残っている。

神社にお賽銭を投げることに限らず、人は、自分の身にまとわりついた「穢れ」を落とすために生きているのだと思う。

日々自分におそいかかってくるややこしい仕事やら約束やら。そういうものを1つ1つ払い落としていくことが生きることだとも言えなくもない。

面倒だと思いながらも、それに携わっているうちに、いつぞやそこに生きがいのようなものを見つけてしまっていたりする。

 

ごみ回収の日の朝。

布団から出たばかりの頭も働かない状態でごみを求め家中を巡回する。

リビングのごみ袋を回収する。

食洗器の食器を棚に戻し、フィルターを交換する。

キッチンの流しを掃除し、フィルターを交換する。

浴室の流しにたまったごみをビニールで回収する。

洗濯機のフィルターのほこりを掃除する。

その他各部屋のごみ箱にたまったごみを回収する。

冷蔵庫の中に残された生ごみをまとめ、ごみ箱へ。

玄関に置いてあったごみを回収する。

最後にポストに届いている不要なチラシを片づける。

かき集めた家の中のすべてのごみを袋にまとめ、ごみ収集所に運び、廃棄する。

朝日を浴びながら、ごみを捨てたとき「穢れが落ちた」という清々しさが全身を貫く。

多くの手間をかけて、まとめ、捨てるからこそ、清々しさも増幅されるのだろう。

これこそが、シン・ごみ捨て。なのである。

 

神社にお賽銭を投げるのは気楽すぎる。

自分にとってごみ捨てとは、神社の参拝以上の「祈り」なのである。(大袈裟かもしれないが、嘘ではない)

 

朝からの一仕事を終えた後の朝の珈琲。これがまた美味い。

 

今日も清々しく一日が始まる。□