★穢れを捨てる

 

チコちゃんに教えてもらったことの多くは、

ほとんど忘れちゃったけど、

 

「神社にお賽銭を投げるのは何故?」

穢れを捨てるため

 

.....というのだけは、強く記憶に焼き付いている。

 

生ごみ収集日の朝、あと30分で収集車が来るという時間の中で、

家じゅうのごみをかき集め、なんとか廃棄した後の、清々しさ。

これは自分の中では、なかなかに大きい癒しであり、

エンターテインメントだ。

ごみ捨ては、家の中の穢れを一時的に開放する神聖な仕事だと思う。

 

人は、おのれの身にふりかかる穢れを捨てるために生きているのではないか。と思うことがある。

刹那、穢れるくらいならば、最初から生まれなければいいではないか。と思ったりもする。だが、穢れることの対価に、世界の美しさや楽しさがある。それに比べれば、多少穢れることがあっても、それでも、この世界で生きたいと思うのである。

 

業務一つ一つだって、いわば自分にふりかかってくる「穢れ」だ。

1つ片づけるたびに綺麗になった気持ちになるが、すぐに次の穢れが降りかかってくる。ずっと穢れっぱなしだ。でもそれを払い落とすことの快感があるから、なんだかんだで仕事を続けているだけだ。

そんなことを繰り返すことで、人生は終わっていくのだろうか。

死ぬ間際に綺麗になれる。という発想は、死ぬことで仏になるという仏教の思想にもつながっていくのだろう。

断捨離。に、どこかで憧れるのは、生活していく中で次々にまとわりついてくる穢れを、少しでも払いのけて、生きていく空間を、きれいな状態に戻したいという本能の表れなのではないか。

年末年始。年度初め。....そんなものだって、穢れを一時的にリセットしてくれるボーナスのようなものであろう。

 

人は、この世に穢れのない状態で生まれ出て、生きていく中で穢れて、それを払い落として、そしてまた穢れて払い落とす.....を繰り返していくが、負債はたまっていき、そして死ぬときに、負債をチャラにしてもらって、穢れのない状態で天・来世に召されるのである。多分。□