今日の映画 「火口のふたり」

 

 

すごく暗い映画を想定していた。

 

映像は全編モノクロ。桜島かどこかの活火山の麓の小さな古い小屋で、男と女がことばも一切なく、ただひたすら交わりあう映画のようなものを。例えば、ロマンポルノ版・ニーチェの馬ような。
哲学的で、硬派で、不条理な性描写が続く、ある意味、ホラー映画のような怖いもの見たさを感じていた(なので本作を再生する瞬間は「エクソシスト」を見る前の気持ちにちょっと似ていた)。

何かの映画を観たときの予告編で初めて本作を知ったが、その時のイメージはそんなものだった。それからずっと気になっていた作品である。

 

だが、そんな映画ではなかった。

性描写はかなり強い映画だと思う。が、エマニエル婦人を芸術性を捨ておいて、ただエロスへの期待値120%で鼻息を荒らだてて食い入るように画面を観ている高校生のような姿は、もはや自分の中から完全に消え去っていて、ただ「動物だな、こいつらは」というとてもドライな気持ちで観ていた。

実際、序盤の見境なくSEXに溺れる男女には、動物的なばかっぽさしか感じられなかったが、徐々に、体の感度まで含めて、相手を求めあう姿を見て、そこまで深く付き合える相手に出会えている人間はほとんどいないのではないか?と思ってみると、稀有な肉体的体験ができている彼らは、多くの人間が到達しえないしあわせの絶頂にいられるうらやましい存在なのだとも気づく。

 

秋田を舞台にしていて、現地のお祭りなどの風土を描きこんだ映像は素晴らしく、二人の存在も引き立つ。ラストシーンでの、海岸のはるか向こうまで並ぶ風車の風景と彼らの対話も美しい。

 

富士山が爆発するという近未来的なSFが盛り込まれる戯曲性も素晴らしい。
富士山が爆発しようと、俺がするのはただ交わることだけだ。と言い切る潔さ。
退廃的な時代を、本能で覆いつくすバカっぽさが、清々しく、かえって理知的に感じられてくる。□