奈良の曽爾村を訪れる。
芸術の秋である。
祭の秋である。
芸術祭の秋である。
芸術祭といえば、瀬戸内国際芸術祭や、横浜トリエンナーレといった有名なものがあるが、ここ数年で芸術祭の人気は全国でどんどん広まっていて、大小問わず、町や村の活性化とアーチストの発表の場を兼ねて、そこかしこで開催されるようになってきている。
曽爾村で芸術祭をやっていることは知らなかったが、見学は無料であるし、メジャーな芸術祭に比べて規模は小さくとも、静かにゆっくりと見学できることを期待して散策に出かけるたのであった。
曽爾村の役場に車を止め、YAMAP片手に散策を開始する。
芸術祭が催されているとはいえ、そこは普通に住人たちが暮らす村であり、集落や道にとりわけ大きな非現実があるわけではない。
だが、全く見知らぬ場所で、自然を見つめ、深呼吸をしながら、まだ見ぬアートをマイルストーンのようにして探し、彷徨い歩くというのは、小さな宝探しのようなもので、心が躍る楽しさである。
コースは軽い山道に入るが、ざくざくと進んでいくと、通常ならば見過ごすような、なんの変哲もない林の中に、突然、アート作品が出現する。
木彫りの熊と木で組み合わされた動物のオブジェである。
この村の一帯のどこかに隠されていると前もって知らされているアートを探し歩き、遭遇する。
遊園地のお化け屋敷に入って、おばけに出くわすような感じだろうか。
どこにいる?いつ現れる?というハラハラ感を抱えながらコースを歩き、その絶頂でバン!と現れる、あの感じである。
自然の中に埋め込まれ、融合したアートから、「ナンダコレハ!?」という非現実感を「浴びる」。
芸術祭とは、いわば、アートの森林浴である。
日常の中、自然の中に忽然と現れるアートという非現実が、心をくすぐる。
ただ歩かされているだけでは退屈であろう平凡な道のりが、アート探しという主体的な目的となり、一つ見つけたらまた次、一つ見つけたらまた次、といったように、次々と仕掛けられたアート探しというエンターテインメントに変貌し、足が前に進みだす。
マイルストーンをつなぐように、疲れを忘れて、北へ南へ、西へ東へ、村の中をさ迷い歩いた。
アートというものがつなぐことがなかったら、きっと歩くことはないであろう道を、楽しく歩くことができる。
アートが人を呼び、
アートが人を歩かせ、
アートが人に発見させる。
これこそが芸術祭というものの醍醐味ではないか。
快晴の空に、m曽爾村の象徴ともいえる、兜岳、鎧岳が威風堂々とそびえる景観の前に、なぞなぞのように詩が添えられる。
3時間に亘る散策であったが、疲れることすらすっかり忘れて、楽しく歩くことができた。
アートの力を体で受け止め、村の美しさを発見する楽しい散策となった。□