制作日記 「描く目的」

 

「誇り」のために描いている。

 

ようやくそういう結論にたどり着く。
おそらく今後この部分がぶれることはないだろう。

描き初めたころ、一緒に描き始めた仲間たちと居酒屋で先生を囲み絵画論をかわした。

 

「全力でやる。

 神様ごめんなさい、これ以上はもうできません。そこまでやる。」

 

そういう先生に、

 

「全力でやって、成功しなかったらどうするのですか。

 誰も認めてくれなかったらどうするのですか。」

 

なんていう不安の声が出た。

 

「それでもやる。ぎりぎりまでやるんだ。それしかない。」

 

そんな感じの話だったと思う。

 

あれから20年ほどたって、改めて何のために描いているのかを振り返ったとき、
成功=誰かに評価してもらうため。という目的で動いていると、行きつく果てが絶望になってしまう。誰かに認めてもらうことは自分ではコントロールできない。そんな目的はほとんど達成されることはない。
世の中には、うまい人や頑張っている人は無数にいる。
そういう人たちを並べて一等賞を決めるとなったとき、最早それは「運」に近いものになる。
守るべきは、その一等賞を決める機会があったとき、そのメンバーの中に自分がエントリーされていること。そういう仕事をいつもしっかりしておくこと。
それはつまり「これ以上はできません」という作品を自分が作れていること。それしかない。

 

嘘偽りもなく、全力で、自分の表現ができている。発信できている。

自分が自分自身を100%信頼できる出力となって作品にやきついている。

作品に自分という存在の代理を任せておける。

そういう作品を日々準備しておく。それしかない。

 

誰の目にも触れずに終わるかもしれない。

それでも、そういうものができてさえいたら、いつか誰かの目に触れる機会があったとき、静かにその作品を示して「これが自分です」と誇りをもって伝えることができる。
それが広がっていくのか、閉じたままで終わるのか、など自分自身で制御できないものは、放っておくしかない。
20年前の居酒屋での対話は、自分自身で成功を制御したい。という議論だったのではないか。あのときの対話に全ての答えがあった。

 

桜も咲く。ひまわりも咲く。そして雑草も咲く。
桜には多くの人の目が集まるかもしれない。
雑草には誰の目も集まらないかもしれない。
でも咲かせてさえいれば、誰かがいつかそれに気付くかもしれない。
ただ、咲く。
ぼくら個人ができることは、ただ、咲く。
誇りをもって、咲く。それ以上はできないのである。□