「これって、アートと呼んでいいのだろうか?」
大竹伸朗展には行く前からそういう、ひっかかりのようなものがあった。
便器をドン!と置いて、アートでござい。というところまで来ている時代だ。
「表現」というものは、すべからくアートである。という考え方は理解しているつもりだった。
だけど、やっぱり、ひっかかる。のである。
これって、アートと呼んでいいのだろうか。
ちょうど一年前に、みうらじゅんの「マイ遺品展」を鑑賞したときにも、同じような印象を受けた。
「これってアートなの?」という疑問が頭に残りながらも、なにはともあれ楽しい展覧会ではあったから、「これもアートだ!」と自分に言い聞かせて、そんなもやもやを強引に振り切り、封印したのだけど、大竹伸朗展をみて、連鎖的に封印したはずのもやもやが、ふたたび掘り起こされてしまった。
彼らの「表現」には、なにか近いものがある。
この機会に、これはアートとよんでいいのだろうか?の、もやもやに決着をつけておきたいと思いながら展覧会を鑑賞していった。
みうらじゅんの「表現」は、
ひとことで言えば「コレクション」である。
みうらじゅんは、大好きなものを、誰よりも執着し、徹底して蒐集していく。
みうらじゅんの作るスクラップブックは、本来のスクラップブックの目的通り、1冊に写真や情報を集約して、大好きな仏像や怪獣を、いつでもてっとり早く閲覧できるようにするためのものである。
極めて普通の動機である。
だけど、誰もがそれほどまでは作らないという、そのおびただしい量をみたときに、これらのスクラップブックはアートなのか?と、脳震盪を食らったような気持になる。
だけど、冷静に突き詰めていけば「ずば抜けたコレクター」であり、結果としてそれが表現となってしまっているのである。
対し、大竹伸朗もスクラップブックを作っているのだが、こちらは好きなものをまとめて1冊にしたというより、身の回りにあるものを片っ端からまとめているだけで、情報としては支離滅裂だ。
そこには、自分の好きなものを一箇所に集約するという行為を、第三者が目撃したときに感じる「狂気」や「気持ち悪さ」を、「表現」したという印象なのである。
その他、スクラップブック以外にも、絵画やら廃物をつかった巨大な物体やらをいろいろ展示しているのだが、全てに共通するのは、生活空間の周りにあるものを、使って集め「表現」としている。
大竹伸朗の「表現」は、
ひとことで言えば「排泄」である。
言葉は悪いかもしれないが、それが最も自分にとって腹に落ちた言葉だった。
ほぼ日の学校で河合塾講師の三浦武先生が言っていたことを思い出した。
人間には生命活動を継続するためにまず「衣食住」がある。
次に、人間が人間として生きるために「芸術」があると語っていた。
これまで自分は、「表現」というものは、この後者にあたる「芸術」にのみ属するものだとずっと思っていたのだけど、みうらじゅんや大竹伸朗の展覧会をみて、もしかしたら、「衣食住」の中にも「表現」があるのではないかと思い至ったのであった。
いわば、この前者の「衣食住」、
すなわち、食べるとか、眠るとか、うんこをする。という生命活動の中に「表現」を置いているのではないかと。まさに「排泄美術」なのだと。
すごく失礼にあたるのかもしれないけど、そんな風に感じてしまい、同時にすごくすっきりしてしまったのであった。
汚い言葉を使ってしまったけど、「衣食住の中にも表現がある」というのは、新しい発見で、そういう発見ができたことは、とても有意義だったと思う。
みんなはどう感じるのだろうか。□