負け惜しみに聞こえるかもしれないが、
時間は無ければ無いほど良い。のかもしれない。
正直、毎日無い無いと悲鳴をあげている自分ではあるが、ふと、無いことも追い風なのではないか?と思い至る。
無いという、極限に限られた時間の中で、必死に工夫をしようとしていることが、結果的に仕事を極限にとがらせることにつながっているように感じる。
定年退職を迎えた作家仲間が、時間ができたとたん、昔のように描けなくなったと言う。多くの人間が同じようなことを言う。
人は自由であればあるほど、不自由になる生き物なのではないか。
松本大洋先生が、GOGOモンスターを描きおろしたとき、〆切がなくなったとたん全く描けなくなったと言っていた。
〆切に追われているときは、もっと時間があったらいいのが描けるのに、とぼやいたりもするが、時間があれば、今度は気を抜いてしまって、作品がゆるくなったりする。
人は追い詰められないといい仕事ができない生き物なのかもしれない。
潤沢な空間を持つ大型書店より、狭いがゆえに陳列する本を真剣に選び、考えている本屋の方が楽しい。
それは狭いという逆境があるからこそ、何を買ってもらうかを真剣に悩み陳列ができているからではないか、とも思うのだ。
これは時間ではなく空間の話だが「無ければ無いほど良い」ということの共通点であるとも思う。
もう1ページ追加しようか、と毎回思うアトリエの新聞。
編集長として、紙面の狭さをぼやき、いつも必死で文字を削っているが、翻って見れば、だからこそ、紙面が締まるのではないか。とも感じている。おそらく、もう1ページ増やしたら、紙面はぶよぶよになる。
20分の串カツに、2時間飲みたいと思いながらも、かつてのどんな宴会よりも充実した気持ちを味わえたりするのも、同じようなことなのかもしれない。
おそらく、人生は、無いほどに、締まる。
久しぶりに少し描いた。
描き始めると調子が乗ってきて、もう少し時間が欲しい。もっと描きたい。と思う。
存分に描きたいと思うのだが、刹那、存分に描いたら、きっと絵は悪くなるという直感が働く。おそらく、ここでもそれは間違いではない。
絵は、存分に描かない方がいい。
もうちょっとだけ。と名残惜しい気持ちを引きずりながらも、「ハイ、今日はここまで!」と容赦なくシャッターを下ろしてしまう。それくらいが、いいのだ。
総じて、逆に観れば、
いい時間をすごしたり、
いい空間を活用したり、
いいものを生み出したり、
するのは「無い」が必須条件なのではないか.......?
無い。という状況は、自分の意志で作り出せるものではない。
無いという逆境を「贈り物」だと思い、逆手にとって、良いクリエイティビティにつなげていきたい。
(....とかかっこいいこと書いたけど、正直心底、無いことはしんどいのだが。)□