習慣を作る

 

「ごはん大盛りも無料で出来ますが?」


定食屋でランチを注文したとき、店員からそんなことを言われることがある。
そんなとき、つい「じゃあ大盛りで」と答えてしまうことがあるが、食べたあとになって、胃もたれをおこして後悔することがある。

もともと大して食が太いわけでもないくせに、今この瞬間の「空腹」という欲望と経済的な「お得感」が、普段それほど食べられない自分という事実を上書きしてしまうのである。

そんな失敗をして、次回は気をつけよう。と思ったりするのだが、また別の機会に定食屋で「ごはん大盛りも無料ですよ」と言われたら、また「お願いします」なんて言ってしまうのである。一体何を学んでいるのだろうか。学習能力があるのだろうか、と自らを卑下する。

そんな間抜けが5回も10回も繰り返されたとき、ようやく体に学習が浸み込んでくるのである。


一度言って、はいわかりました。

....とは行かない事って結構多い。

習慣を作る。とはそういうことである。

自分が今までとってきた悪しきやり方を、正しいと思われる姿に、時間をかけて、戻す行為である。

悪しきやり方でありながら続けて来たのには、やはりなんらかの理由がある。

何十年も生きてきた中でできたやり方なのだから。わかっていても、すぐに直せるものでも無かったりする。

何度も、何度でも、繰り返し、繰り返し頭に、体に伝えて教え込んでいくしかない。時間はかかる。でも、確実に正しくなっていくはずである。□

笑っちゃいけない

笑っちゃいけないシーンがある。

大きなものでは葬式だったりする。

小さなものであれば床屋で剃刀を当てているときなんてのもある。

そういう「笑っちゃいけないシーン」が僕は全般的に大の苦手である。

つまり、どうしても笑ってしまうのである。

笑ってはいけない。というふうに押さえつけようとするほどに、その反動からか、過去のどうでもいいことが次々と脳裏に浮かび、意味も無く失笑しそうになる。そのたびに、手の甲を激しくつねったり、爪を立てたりしてこらえるのである。

先日ピノを食べていたらかつてないほど、右下奥歯がしみた。

これはただごとではないと歯医者に行ったら奥歯のかぶせものが知らない間に取れていたことがわかり、急きょ治療ということになった。

さいわいにして虫歯ではなかったが、ぽっかりと空いた奥歯の穴に詰めものを流し込んでもらう必要があった。
歯医者には4か月程度に一回検査に通っているがここのところずっと虫歯はなく、この歯医者で治療をしてもらうのは初めてであった。

先生はおだやかなようでいて、かなり熱いやつだった。

「はい、もっと口あけてっ!」

「唾液がながれこむと全部やり直しだよっ!こらえてっ!!」

まさかこんなやつだったとは。と半ば怯えながら治療をしてもらっていたのだが、ここにきてまた出てしまった。
目を白黒させて怯えている自分を、天井あたりから眺めるもう一人の自分がいて、その間抜けさに吹きだしそうになっている。

笑ってはいけない!

そう思うや否やなぜかダウンタウンのまっちゃんの顔が思い出されて、吹きだしそうになり、口がゆがんだ。

「もっと口開けてっ!手元が狂うから鼻で息してっ!!」

刹那、先生の熱いツッコミ。それを受けるたびに自分のかっこ悪さが比例してさらに笑いをこらえられなくなる。

地獄である。

一般的な歯医者のイメージといえば、痛いとか怖いということなのだろうが、僕にとっては笑いをこらえることが地獄なのだった。

深刻であるほどに笑ってしまう。どうか僕が深刻なシーンで顔をゆがませていた時に出くわしたときは、許してほしい。悪気はないのである。□

今日のカレー

 

こだわりのINDIAN CURRY バンブルビー(3点)

 

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スパイスカレーはもろ刃の剣である。

江之子島芸術センターから徒歩で行けるということで
展覧会の帰りに仲間と立ち寄りました。本町寄りです。

休日でありランチ時間を過ぎていたので特に並ぶ事も無く入店。
辛いのは大丈夫ですか?と問われて、比較的やさしめでお願いします、
...と、代表メニューの3色カリー¥1200をいただきました。

が、それでも辛くて。スパイス的な辛さというか塩辛いのです。
しかも、ごはん1にたいしてルウが5くらいある。辛すぎる。
個人的にはごはん3に対してルウ1で良かったくらい。

現在食べログで5位という高順位ではありながら、薄味の好きな、わたくしにはちょっとつらかった。
#薄味好きならカレーなど食べるな。というつっこみもありそうですが...。□

あこがれとげんじつ

 

かつて通勤路の途中に、気になる喫茶店があった。

 

地元ならではの小さな喫茶店である。

毎朝入口に大きなのぼりが出ていて「モーニング¥390円」とある。

僕はどうしてもこの喫茶店に行ってみたかった。
だが、朝という時間はどうにもこうにも忙しい。
本当は毎朝30分程度の早起きをし、足下を見ながらぞろぞろと屍人のように職場に向かう連中を差し置いて、我こそは!と、ひとりその喫茶店に飛び込み、優雅な朝を過ごしたい。とずっと考えていたのである。

だが、これだけ多くのサラリーマンがぞろぞろと歩くのにもかかわらず、誰一人としてその店に足を運び入れる者はいない。
多くの者には必要も興味もないのだろう。だが、僕はこのスパイラルからどうしても抜け出したかった。
そうずっと考えていたとき、偶然この喫茶店に入る機会があった。
ここぞ!とばかりに僕は悲願のこの喫茶店に飛び込んだのであった。

 

...............人がいない。

4,5名程度が座れるカウンターと、4人掛けテーブル2つほどの小さな店内。
客は僕だけである。カウンターにスタッフらしい男性が座っている。私服である。客なのか一見判断がつかない。カウンター内にいるスタッフと親密にはなしていたから、きっと身内なのだろうと判断する。

「モーニング1つ」

気を取り直して、注文する。
だが、それにしても居心地が悪い。
客が自分だけしかいないから、なにかと店員の視線を感じてしまうのである。
店内は狭く、暗く、息苦しかった........。
頼んだモーニングセットの食パンをかじり、コーヒーを頂くが、なんだかとても緊張してしまって、とても楽しいだとか、リラックスしようだとか、そんな気持ちにはなれなかった。

以来、あの喫茶店には行っていない。

ずっと持っていたあこがれを、どんどん具体化していくこと、刈り取っていくことは大切なのだろう。
だが、あこがれをあこがれとして、心に残しておくことも大切なのだろう。□

今日の一冊

 

古典部シリーズ5)「ふたりの距離の概算米澤穂信著 角川文庫(9点)

 

はじめにタイトルを見て、ついに折木奉太郎と千丹田えるの恋の距離が縮まる物語か?と思っていたのだけど、全然関係がなかった。

古典部の面々もついに2年生になって新入部員を迎えることになった。
だが、唯一入部すると言っていた大日向友子は、突然入部を辞退する。
はたして千丹田えると大日向の間に一体なにがあったのか?.....というのが大まかな物語だ。

殺人が起きない小さな事件をとりあつかったミステリーでありながら、どうしても真相をおいかけてしまう、ひきこんでくる語り口は毎度楽しい。
今回、いつもどおりのそれを更に面白くしているのは、入部締切日に校内マラソン大会が重なり、奉太郎は、走りながら数少ないヒントを拾い、大日向の退部の理由を見つけ出すというプロットである。

ラソン大会で20㎞の距離を走りながら、後ろからやってくる古典部の仲間を待ち、数少ない証言をもらい、また過去のいくつかの小さな事件を振り返りながら、物語はクライマックスの真相に向かって進んでいく。

シリーズ1作目の2001年「氷菓」から9年である。この9年で作者の米澤穂信氏の表現力や構成力が更に飛躍的に向上しているのを感じる。マラソン大会という骨格を持ちながら、大日向が退部する理由を考える回想シーン1つ1つにまた小さなミステリーが含まれていて、マトリョーシカのようになっている。
物語の構成も、謎も、キャラクターの息づかいも、リアルで深く、面白い。

もうすっかり古典部のとりこになってしまった僕なのであった。□

 

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(以下、自分へのメモ。ネタバレしまくるので読まないように)
・大日向友子の退部は、知られたくない過去の友達のことを千丹田が知っていると誤解したため。
 過去の友人は、身内をだましてお金を取り、大日向と遊ぶような子であった。
 大日向は、その友達のことを千丹田が知っていると思い込んで距離を置くために退部を申し出ていた。

・奉太郎の誕生日会のシーンでは、誰が奉太郎の自宅を知っていたか。という話から、
 実はかつて奉太郎の家に来たことがあった千丹田が、それを隠すという展開が看破されそうになる。

・大日向の親類がやっている珈琲店では、店の名前を当てるゲームの展開となる。
 正解は「歩恋兎(ブレンド)」。

買う。

「買う」という行為を考えてみる。

「買う」という行為には、多かれ少なかれ「ストレス発散」の目的が含まれていると思う。

僕たちはふだん、一見大義名分があるような言い訳等をするかして、ものを買うことが多い。

例えば「健康のためにジョギングを始めようと思っていて、新しいスニーカーとトレパンを買った」だとか、「資格を取ろうと思っているから新しい机を買って、いっそう勉学に励む」とか。

だけど、いざ買ってみると、本来は「走るため」だとか「学ぶため」だとかいう大いなる目的があったはずなのに、買うことだけで満足、安心してしまって、その後一向に走りもしないし、勉強もしないのである。
いつの間にか素晴らしい大義名分は「買うこと」が目的にすりかえられてしまっている。

買うという目的の本当のところは、「ストレス発散」という目的であって、「走る」だとか「学ぶ」という目的は、ストレス発散ということを隠すための隠れみのでしかなかったりする。

そういう自分は、最近ものをあまり買わなくなった。

かつて最も買っていたのは書籍だったけど、読んだ本はただ本棚に並べられるだけ。という末路に気付いてから、図書館を使うようになって、どうしても欲しいという書籍以外、ほとんど買わなくなった。(これは春の引っ越しに伴い、積もり積もった不要な書籍に人生の体力を大幅に削り取られたことからの学びも含まれている)

ペットボトルも買わなくなった。麦茶を自宅で作り、魔法瓶に入れて持ち歩くようになった。

その他もろもろ。買わなくて良いもの、将来確実にゴミと化すものはなるべく買わないと決めた。

....となると、誰もが持っている「買うことによるストレス発散」を僕はどこで解消しているのだろうか。

 

実は、スーパーなのである。

 

スーパーで買い物をする。
買うものは、生きていくために絶対必要な食糧だから、スーパーでの買い物には「生きるため」という絶対的な揺るぎない目的がある。そして、スーパーでの買い物には、何かを買いたいというストレス発散も兼ねられている。

スーパーでの買い物によって「本当に買わねばならないもの」と「買うということのストレス発散」が兼ねられて、結果として、ものを買わない自分になれたのである。

主婦もきっとスーパーの買い物によって買うというストレスを発散していたのだな、と身をもって知った。

一石二鳥の買い物術。この数か月で手に入れた大きなスキルだと思っている。□

超歌舞伎!!

 

話題の「超歌舞伎」を京都南座で観劇した。

 

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中村獅童初音ミクが共演する超・新歌舞伎である。
歌舞伎もデジタルと融合する時代。
古典芸能としての伝統を守りながら、新しい挑戦を続けている。

舞台中央に配置された等身大のスクリーンに初音ミクが映し出される。
人間の役者とデジタルで映し出された初音ミクが演技を交わし、殺陣を演じる。

歌舞伎の観劇は久しぶりであったが、次々と襲い掛かる青龍の眷属たちを、中村獅童が軽くあしらいにらみをきかせることで退散させる「様式」は、かっこよくて震えた。

初音ミクが登場するスクリーンの上部は舞台も兼ねていて、上段での戦いと下段スクリーンでの戦いが同時に展開されるなど前衛的な表現も取り込まれ、とても迫力があった。

クライマックスはオールスタンディングの中、視界を覆い尽くす桜吹雪が舞い、ミクが千本桜を歌うという狂喜乱舞のライブ!!圧巻でした。

 

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かっこよかったなぁ。

歌舞伎って中二病だ!□

初音ミク「千本桜」
http:// https://www.youtube.com/watch?v=shs0rAiwsGQ

 

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追伸:
今度は「風の谷のナウシカ」が歌舞伎化されるとのこと...!
考えられる殺陣は、巨神兵VS王蟲だが、これって誰が演じるのだ........?